自然の力が生きている天然醸造味噌
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店長日記
店長日記:43
2011年11月15日
馬頭広重美術館内に「JOZO CAFE 雪月花 by HARUKMAYA」を本日オープン致します。契約したのが10月29日でしたので、短い準備期間でしたが、多くの方々のお力添えで今日を迎えました。とりあえずひっそりとオープンし、徐々に体制を整えてきたいと考えています。どうぞ、長くおつきあい下さい。

店は「ギャラリー&カフェ」 はるこま屋の商品を全種類販売するほか、陶器や漆器、全国から集めたおいしい食材や持っていて嬉しくなるような雑貨などもご用意しております。どれも、自信を持ってお勧めできるものばかり。ぜひ、ごゆっくりお選び下さい。

カフェはおいしい珈琲や薬草茶、甘酒、地元産の新そばなどをご用意してお待ちしております。しばらくはオープニングメニューのみの提供になります。特にお勧めは「ゆず釜そば」。期間限定、数量限定、しかも来年は提供できるかどうかわかならい、超レアなそばです。・・・いったいどんな蕎麦?それはご来店のお楽しみ。

ギャラリーもカフェも、これから徐々にアイテムやメニューを増やし、皆さまに愛されるお店に育てたいと願っています。ぜひ、ご愛顧のほど、よろしくお願い致します。

今日は40歳で他界した姉の誕生日。姉の闘病生活時代から一緒に生活してきた三人の子どもたちも、おかげさまで健やかに成長し、当時幼稚園生だった末っ子も今は高校三年生になりました。私たちとの生活もあと数ヶ月です。私たちのこれからを、見守っていて下さい。
2011年10月18日
本日、株式会社はるこま屋は法人設立20周年を迎えました。個人商店だった五月女商店から独立し、「株式会社春駒味噌醸造」として設立したのが1991年10月18日。あの日から20年の歳月が流れました。

この間、実に多くの方々とのご縁をいただきながら、多くの方々に支えられながらここまで歩いてくることができました。改めて感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。

今、私どものみならず、この地域は風評被害に苦しんでおります。いろいろ考えるところがあって、「うちの商品は安全です」などとアピールすることは敢えてしませんでしたが、他を批判することなく、安心して召し上がっていただくための情報は開示していきたいと考えております。

どうぞこれからもよろしくお願い致します。



皆さまとのご縁に感謝しつつ・・・

五月女清以智
2011年08月05日
本日の下野新聞「フードバレー探訪記」で「春駒味噌」が『伝統製法守った「作品」』というタイトルで紹介されています。書いて下さったT記者は地元の支局時代から「五月女さんの記事を書きたい」とおっしゃって下さっていました。コンパクトにポイントを外さず書いて下さり、とても感謝しております。朝から反響の電話が・・・。ありがとうございます。
2011年08月01日
ホームページのリニューアルから1週間、正直なところ、想像以上の多くの方々にご来店いただき、大変ありがたく思っております。これまでのHPにはカウントがついていなかったので見当がつかないのですが、これだけ多くの方々に見られていることを考えると、改めて身が引き締まる思いです。

「クラフト」のコーナーはこれからたくさんの作品を紹介していきたいと考えております。なかなか手がまわらなくて進められないのですが、これから登場する作家さんたちも作品も、みんな自信をもっておすすめできるものばかり。どうぞお楽しみに。

ただ、一点モノが多いため、売り切れの際はご容赦下さい。個体差のあるものは一点もの扱いでお取り扱いする予定でおります。
2011年07月24日
このたび、ホームページをリニューアル致しました。これを機に、春駒味噌、いしがきかりー等、はるこま屋おなじみの商品のほか、「よりおいしく食べていただく」ための「器」の提案を始めました。「漆の革命児」と呼ばれた故・角偉三郎氏の意思と意匠を継いだ角漆工房の漆器、沖縄陶芸界の巨匠・大嶺實清氏率いる大嶺工房の陶器を紹介します。いずれも、ネットでは手に入れにくい逸品ぞろい。末永くおつきあい下さい。

商品の充実はもとより、ニュースレターの発行をはじめ、HP限定商品のご案内など、情報、サービスともに充実させていきたいと考えております。どうぞ今後ともよろしくお願い致します。

2011年07月12日
このたび、より使いやすく、管理しやすいサイトに作り変えたいと思い、ホームページをリニューアルすることにしました。それに伴い、サーバー管理会社、ショッピングサイトも移行することにし、お客さま方にはご不便とお手数をおかけしてしまうことをお詫び致します。新しい24日(日)スタートを予定しており、URLやアドレス等の変更はございません。

リニューアルに伴い、これまでもお問い合わせの多かった輪島・角漆工房の漆器や読谷・大嶺工房の陶器をはじめ、食卓をより豊かに彩ってくれる「器」の紹介も始めることに致しました。

角漆工房は「漆の革命児」と謳われた故・角偉三郎氏の意思と意匠を継いだ工房で、氏の長男である角有伊氏が総指揮を務めています。大嶺工房は、過去に沖縄県立芸術大学の学長も務められた大嶺實清氏が率いる工房。多くの陶芸家たちがこの工房から巣立っています。どうぞお楽しみに。

もちろん、春駒味噌、いしがきかりーについても充実させ、ネット限定の商品も提供していく予定です。

現在のホームページは「自然育児友の会」の皆さまのご尽力により立ち上げ、運営してきたものでした。改めて厚く御礼申し上げます。

リニューアルを機に、これまで以上に内容を充実させるべく、スタッフ一同、新しいホームページの作成に取り組んでおります。どうぞ今後ともよろしくお願い致します。
2011年07月06日
ご報告が大変遅くなりまして申し訳ございません。大震災発生以降、4月末日まで行いました特別販売の売上金は、合計で155,900円になりました。多くの皆様方のご協力に心より感謝申し上げます。なお、消費税については弊社でお預かりしている性質のものですので、ここには含まれておらず、送料については弊社で全額、もしくは一部を負担しておりますが、調整はしておりません。純粋な売上金額です。

このお金について、送り先をいろいろと検討してまいりましたが、「復興釜石新聞」を発行している岩手県釜石市の「合同会社 釜石新聞社」に送ることにし、先方からも快諾を得られたことから、7月4日(月)に銀行振込にて送金致しました。

本来なら伺って手渡ししたかったところですが、そうと決まれば一日でも早い方がいいと思い、送金致しました。

実はこの義援金の送り先が、とても悩むところでした。三陸には多くの友人、知人が生活しており、その多くが甚大な被害を受けています。そのおひとりおひとりに想いを寄せると、胸が激しく痛みます。赤十字社や行政に寄付をするよりも、よりこのお金が生きるところはないか、とずっと考えていました。

そんな折、「復興釜石新聞」が創刊されたニュースを目にしました。前身である「岩手東海新聞」は津波の被害で、記者が2名亡くなられたそうです。震災直後、津波に飲まれながらもカメラのシャッターを切る記者の姿が報道されていました。(ご当人はご無事) 輪転機など会社の設備が大きな被害を受け、新聞の発行を断念、社員は全員解雇されたと伝え聞いていました。

しかし、その中の有志が集まり、6月に「復興釜石新聞」として立ち上がった、と。

元・ライターとして、活字の力を信じます。また、地域からの発信、住民の方々を結ぶ架け橋としての、地域メディアの必要性も強く感じています。そんなメディアであって欲しいし、それが続いていって欲しいと願っています。

15万円というお金はどこにも足りませんが、パソコン一台、或いはカメラ一台くらいは買える金額です。ちょうど、パソコンが壊れて困っている、とも聞きました。はるこま屋のお客さんたちの想いと願いを、そのパソコンに託し、そこから多くの力や笑顔が生まれ、広がっていったら、どんなにかすばらしいでしょう。

そう思い、また新しい媒体の冠につけられた「復興」に向けて力強く歩み続けてくれることを願い、送りました。

長い戦いになります。弊社としても、私個人としても、今後とも長くかかわっていきたいと考えています。だから、がんばりすぎないよう、それでも踏んばって、歩いていきましょう。
2011年05月01日
被災地支援の特別販売を行いました「海の天然水」「あるちざんのフリーズドライ味噌汁」について、特別価格での販売は4月30日をもって終了いたしました。多くのご利用ご協力に心から感謝致します。

売り上げの合計金額、使い道等の詳細につきましては後日HPでお知らせ致しますので、もう少々お待ち下さい。

なお、これらの商品につきましては、5月1日から通常の価格に戻し、引き続き販売致します。今後ともよろしくお願い致します。

2011年04月29日
事後の告知になってしまいましたが、27日(水)に東京・御茶ノ水「山の上ホテル」で開催された「日本の酒メッセ」に出展させていただきました。

http://www.shuhan-biz.jp/

その名の通り、酒販店さま・飲食店さまなど酒類販売関係者を対象にした日本酒の展示試飲会なのですが、伝統調味料として、味噌、醬油、みりんのメーカーが各一社づつ参加し、ありがたいことに味噌醸造業としてお声をおかけいただきました。

ふたつに分かれた会場に、全国から集まった蔵元が40社以上。なかなかの熱気に包まれた展示会でした。

せっかくの機会なので、味噌とともに漆器の酒器を提案させていただきました。「漆の革命児」を呼ばれた故・角偉三郎氏の意思と意匠を継いだ、ご子息の角有伊氏率いる角漆工房の作品です。これが、すばらしい。私どもは「料理は器で味が変わる」と考えており、よりおいしく味噌汁を味わっていただきたいと漆器のお椀を探し求め、たどりついたのが輪島の角漆工房でした。お椀はもちろんですが、酒器もすばらしい。私自身、この酒器を手にしてから、日本酒の消費量が飛躍的に伸びた気がしています。使うのが楽しい。そして、日に日に少しづつ成長していく器を手にするのが楽しみでもあります。そんな楽しみをより多くの方にも味わっていただけたらと思っています。

これらの作品はいずれHPでの販売も始めたいと思っています。どうぞお楽しみに。そして、よろしくお願い致します。

「日本の酒メッセ」はとてもキモチのいい時間でした。来場者も出展者も「醸造」という世界にまじめに取り組み、そして広げていきたいという気持ちが充満していたように思います。思いがけず、多くの方からお声をかけていただきました。自分たちの作っている味噌が、こんなに多くの方々に届いていたということに、改めて感謝です。

だから、また思いました。「がんばろう、オレ」と。
2011年04月26日
良く晴れた24日の日曜日、都内で開催されたふたつのイベントに参加するため、上京してきました。ひとつは「アースディ東京」 http://www.earthday-tokyo.org/ もうひとつは取引先でもある「らでぃっしゅぼーや」が主催したチャリティーイベントです。 http://corporate.radishbo-ya.co.jp/info/info_571.html 好天のおかげもあって、どちらも大盛況。多くの仲間とも再会でき、状況が状況なだけに、有意義な時間を過ごしました。

われわれのような、ひとさまの口に入るものを生産している者にとって、同じ志でものづくりをしている仲間は、どこか「根っこ」でつながっているような深い結びつきを感じることがあります。もちろん、それを買って下さるお客さまも含めて。そんなつながりを、勝手に「根っこワーク」と名づけました。当日、インタビューを受けながら、ふと、湧いたコトバです。ただ、お金とモノのやりとりではなく、そこに「意思」のあるつながり。そこに身を置いていることを、改めて心強く感じました。

「我、汝の意見に反対す。されども、汝の意見する権利、死すとも擁護せん」・・・私が学生時代に在籍していたクラブには、そんなモットーがありました。

人それぞれ、立場も経験も意見も違うのはあたりまえです。しかし、違うことを認めないことから諍いは起こるのだろうと思います。

少しひねくれた考えなのですが、「ひとつになろう、ニッポン」といわれても、国がひとつになって戦争に向かっていった過去を考えると、素直に同意できないところもあります。

ひとつになんか、ならなくていい。ただ、それぞれがそれぞれに今回のことを捉え、考え、そしてなんらかの行動に反映できれば、それでいいのではないでしょうか。

みんな、自分にできることを探しています。

2011年04月23日
20日、21日と三陸の地を踏みました。陸前高田から大船渡、釜石、宮古へと。今まで何度も足を踏み入れたことのある街ですが、現実に目の前に広がる光景に、言葉を失い、カメラのシャッターを押すことができませんでした。

震災以来、初めて上京した宮古のとりもと社長が帰り道に寄って泊まっていかれ、そのまま同乗させていただいて訪ねた三陸でした。かつて、長野県王滝村の大地震や神戸の震災でも現地に伺っていましたが、そこでなにが起きたのか、この目で確かめたかったのかも知れません。

あるはずのものが、何もない。街ごとさらわれてしまった陸前高田。ささやかな支援物資がなんの役にたったのだろう。笑顔のない再会。そこで自分にできたことは、消えた街に向かって、ただ手を合わせることだけでした。

この日やっと全面開通した東北本線の各駅停車を乗り継いで岐路につきながら、ひとつだけ、明確に思ったことがありました。「がんばろう、オレ」と。

三陸の被害は津波によるものがほとんどで、地震そのものの被害は栃木の方がよほどひどい印象です。多くの屋根瓦が落ち、大谷石の塀も崩れ落ちています。私どもの工場でも隣の山が山津波を起こし、山ごと崩れてしまっています。さらに、農作物の出荷停止で、多くの生産者が苦しんでいます。

いま、自分がやらなくちゃならないことが、少し見えてきた気がしています。
2011年04月01日
本日のNHKニュースで、復興に向けて動き出した陸前高田の八木澤商店のようすが放送されました。思えば、先々代は広田湾開発に人生をかけて反対し、きれいな海を守り、先代は陸前高田の名を全国に広げる大きなきっかけとなった「太鼓まつり」を始め、そして本日新社長となった当代は陸前高田の復興に向けて烽火をあげる。これはもう運命でしょう。通洋君、とてもつなく厳しい道のりになると思いますが、これを百も承知で立ち上がった君に、心からのエールを送ります。ともに、がんばっぺな。


そのあとのニュースで、福島の放射能被害についての説明会のようすが放送され、質問したのが、ああ、なんと、私の学生時代の恩師ともいえる、I先輩ではないですか。「友が欲しくば飲みに行け。友ができたら飲みに行け」と、私の学生時代を酒びたりにしてくれた張本人です。放送されたのはほんのワンシーンでしたが、そのバックボーンにある、国のエネルギー政策に対する疑問や検察に対する不信(福島県では原発に意義を唱えた現職知事がどうでもいいような容疑で辞職に追い込まれた。その担当検察官は先に逮捕された「大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件」の特捜部主任検事だったとされている)など、いろんな想いがあったはず。I先輩は酒だけでなく、物事の本質を見る目を教えてもくれた方でした。

都会の快適な暮らしの犠牲になり、避難せざるをえなくなり、農業も、畜産も、恐らく漁業も、風評被害で生活も生業もなりたたなくなりつつある福島県の方々。私はもう50歳。この程度の放射能(事態が悪化すれば話は別ですが)に神経質になるトシではありません。食べるぞ、福島県産。持ってきてよ福島県産。そんな想いでいる方は、私だけではないはずです。
2011年03月29日
「いしがきかりー」が届きました。3月11日、あの震災が起きる直前に岩手県宮古市から出荷されたカレーです。ここまでの道のりを思うだけで、感無量です。あれからもう二週間以上。どこかに流されてしまったのではないか、と思い始め、正直なところ、少しあきらめかけていたところでした。

無事届けてくれたヤマト運輸さんには心から感謝しています。この厳しい状況の中、よくぞ無事に届けてくれました。ただの「モノ」ではなく、そこには「想い」が詰まっている・・・クロネコヤマトの創業者のそんな言葉を思い出し、嬉しくなりました。

宮古はまだまだ厳しい状況が続くと思いますが、少しの明かりが見えた思いになりました。
2011年03月25日
ライター時代、力を入れてかかわった雑誌のひとつに「DAYS JAPAN」(講談社)という雑誌があった。大手の出版社として、社会問題に正面から取り組んだ、当時としては画期的な雑誌だった。私はこの雑誌のトップ記事に3回かかわることができた。「環境問題」などのテーマを大手メディアでは口にすることもできなかった、いまでは信じられないような時代のことだ。

その創刊号の大特集が「四番目の恐怖」と題した原子力発電所、即ち原発の危険性を指摘した記事だった。1988年4月号だったから、発売は1988年3月10日だったと記憶している。ちょうど23年になる。残念ながら、このときの指摘は、少なからず的中してしまった。

その年、佐野元春氏が発表した楽曲に「警告どおり計画どおり」という歌がある。

「ウィンズケール スリーマイルズ・アイランド チェルノブイリ すべては警告どおり」・・・「四番目の恐怖」にインスパイアされた曲だろうと思う。「四番目」それは、もちろん、この日本で起こりうる出来事を警告している。そして、それが今まさに、起きている。

「安全」「安心」「クリーンエネルギー」原発はそう説明され続けてきた。一方、危険極まりない施設だとも指摘されてきた。しかし、100パーセントの絶対なんて、この世にあり得ない。それがある限り、リスクは常に背中合わせだ。しかも、地震大国のニッポン。誰もがその危険性をうすうす感じてはいたはずだ。

そんなリスクに目をつぶり、電力の消費量はなし崩し的に増加の一途を辿ってきた。ここ数年の「オール電化キャンペーン」にはいろんな意味で警戒感と違和感を持っていた。そんなに電気の消費量を増やして、資源のないこの国でどうやって電力をまかなうんだろう。原発をいくつ造っても足りなくなる。そもそも、資源のないこの国で「低炭素社会」など、理想と現実があまりにも乖離しすぎてはいなかっただろうか。原発の増設抜きにその推進はあり得ない。「必要だと思います」というキャンペーンも気持ち悪いと思いながら見ていた。どんな犠牲の上に、快適な生活があったのかも、計らずも露呈してきた。

このあと、この国の、世界のエネルギー政策は大きく転換せざるを得ないだろう。それに伴い、生活や産業のあり方も根本から見直さざるを得ない。いま、この国の進むべき道が、問われている。
2011年03月22日
昨年の夏、友人が陸前高田の八木澤商店を訪ねた折、専務の河野通洋氏に工場の裏側にある小高い丘に案内されたという。なんの変哲もない、丘。ちょっと不思議な思いになった彼に、通洋氏はこう話したそうだ。

「むかし、大きな津波がきたんだけど、みんなここに逃げて助かったって、おじいちゃんから聞いた」

地震が起きて、仲間の安否がまったくわからない頃、彼はこのときのことを思い出し、必ずあの丘に逃げて無事であるに違いない、と信じていたという。

「津波のときは沖へ逃げろ」三陸の漁師たちの鉄則だそうだ。その言葉通り、波の影響を受けにくい沖へ逃げて難を逃れた漁師さんがたくさんいると聞いた。

「古い」ということを、意味のないもの、価値のないもののようにとらえる向きがあるが、そうではないだろう。経験に勝る理屈はない。きっとこうして、先達の教えを守りながら、知恵をしぼり、人はいのちをつないできた。活字の中では得られない、コンピューターではおしはかれないことが、この世にはまだまだある。

福島の原子力発電所。「津波がくる」ことをまったく想定していない設計に、いまさらながら驚いている。「土地」を知らない机上の学問が生んだ、取り返しのつかない、「負の遺産」になってしまった。
2011年03月21日
連日ブラウン管から流れてくる、想像を絶する光景に、ただただ言葉を失うばかりだ。救援物資を送るにも、その術がない。そんな中で多くの仲間たちが、被災地、或いは周辺地域で、復旧活動に身を投じている。うれしくもあり、頼もしくもある。そして、頭が下がる思いでいる。みんな、お金を稼ぐことは上手くはないが、「生きる」ことに対しては真剣だ。だから、きっと長年友人でいられている。君たちは、ぼくの誇りだ。

私にできることはないか、多くの国民の皆さんとおなじく、私も毎日そう考えている。そこで、ふと考えた。みんなこれからの生活をどのようにして再建していくんだろう、と。住む家を失い、職場を失い、これからどうしていくんだろう、と。いまは緊急の避難だが、やがて収入を得る必要がでてくるはず。そのとき、どこで、何をすればいいのか、何ができるのか。

ほかの業種のことはわからないが、私どものような醸造業というのは原料を仕入れてから、醸造し、出荷して現金が入ってくるまで、一年単位で長い時間がかかる。もしかして、被災地の工場や会社は保険等である程度の補償はされるのかも知れないが、従業員の方々はそうはいかない。会社が再建されるまで、どうやっていけばいいんだろう。

そこで、被災者の方々の期間限定での臨時雇い入れ制度を作ってみてはいかがだろうかと考えている。私どものような醸造業はそれなりの経験と技術が必要で、いきなり誰にでもできる仕事ではない。だから、新規での採用となるとなかなか難しい面もあり、うちでも募集をかけたことはない。(もっとも、家内制手工業のレベルなので従業員を雇うこともできないのだが)しかし、即戦力になる経験者であれば、話は別。ぜひ、その技術を、会社が再建されるまでの期間、ほかの町で、ほかの事業所で、生かしてはくれまいか。もちろん、もとの会社が再建できたときは戻れるという条件付で。

私どものような零細だけでは数人にしか対応できない。しかし、多くの事業所で、多くの業種で、さらに国をあげて取り組んでくれたら、多くの被災者の方々の生活が守られるのではないだろうか。

ぜひ、そのための仕組み作りに、取り組んでみたい。
2011年03月20日
被災地で差し入れのおにぎりを食べた初老のことば。なんて美しいことばなんだろうと思った。この短い言葉に凝縮されたさまざまな場面、人、想い・・・そんなものを思い、素直に感動した。

「子どもたちが無邪気にはしゃいでいる声を聞くと、癒されます」そう話す老婆もいた。こんなひとたちが、この国を作り、育て、支えてくれていたことを、今さらながら思い知らされている。

決して、無神経な放送を繰り返す某放送局やキャスター気取りの輩のおかげであるものでも、ためにあるものでもない。批判も非難もしたくはないが、あまりにもひどすぎる。見なけりゃいいのだけど、少しでも現地の情報が欲しくてチャンネルサーフィンしていると、どうしても見てしまわざるを得ない場面が何度もあった。なんで笑ってんだ。何はしゃいでいるんだ。今回だけは、どうしても許せない。ただ、今さら始まったことではなく、この局の体質、体制が、ただ素直に露出しただけのことであるとは思うのだが。少なくても、「報道」からは撤退したほうが世のため人のためというものだ。何故、彼らが彼女たちが、貴重な電波の権利や、あり得ないほどの高給を手にできているのか、理解でききない。計画停電、まずはお台場あたりからやりましょうよ。世紀の勘違い集団にはそれでもこの国の成り立ち、支えている人びとの涙も笑顔も、理解はできないだろうけど。

すみません。少しアタマに血がのぼってしまったようです。「人間力」「日本力」そんなものを見せつけられている毎日。自分にもできることが、きっとあるはず。いずれ皆さまにも発信し、ご協力をお願いすることになるかと思います。総力戦になります。
2011年03月19日
あんべ光俊が陸前高田市で開催したコンサートの際、作った曲のタイトルだ。この町には、そう歌わせるたくさんの仲間たちが暮らしている。

「全国太鼓フェスティバル」、1989年から陸前高田市で開催されているイベント。全国の太鼓叩きがそのステージに立つことを夢見ている、「太鼓の甲子園」。実行委員会は地元在住の住民の皆さんで組織されている。固定された組織ではなく、毎年募集され、大会終了後には解散する。全国的にも類を見ないネットワーク組織かも知れない。


「俺は『日本一の駐車場係』になる」駐車場担当者の言葉だ。イベントの際、実行委員会の中で一番敬遠されるのが、実は駐車場係だ。苦労して舞台を作り、自分はその舞台を見ることもできず、お客さんの来場と帰宅をひたすら誘導する。「でもな、駐車場係でしか味わえない喜びがあるんだ。お客さんが喜んでくれて、いい笑顔で帰ってくれること。あの笑顔は、駐車場係にしか見ることはできない」・・・すごい人たちだと思った。そんなスタッフがいるイベントが、失敗するはずはない。この催しはやがて「太鼓の甲子園」と云われるようになり、入場チケットも発売と同時に完売するほどのイベントに育っている。

この町の「学校給食を考える」ような内容のシンポジウムに招かれたことがある。驚いたことがいくつもあった。陸前高田では、学校給食が始まって以来、牛乳は市内産以外のものを使用したことがないこと。町の特産品である「ヤーコン」を学校給食のメニューに取り入れようと、栄養士が栽培されている畑まで見学に行っていること。学校給食のシステムをそれなりに理解しているものとして、これは驚きだった。「地産地消」などという言葉が、まだ認知もされていない時代のことだ。

陸前高田市は日本四大名工のひとつに数えられる「気仙大工」が知られた技術の町でもある。

「棟梁の 謡(うた)も木の香も 流れくる 矢車清しき 棟上の式」

これも、あんべ光俊が東北地方を中心に開催した「短歌コンサート」の際、陸前高田で生まれた曲。作詞は陸前高田市在住の女性。

河野さん。陸前高田は終わってなんかいない。みんな、すばらしい財産をたくさん残しながら、生きてきました。無責任なことはいえないのは重々承知しています。でも、人びとの暮らしとは関係なく、やがて春が来て花を咲かせてくれます。自然は時として信じられないほど残酷ですが、時としてとてつもない力を与えてくれます。私は信じます。自然の力を。人の力を。だから、もういっぺん。

2011年03月18日
先ほど、「いしがきかりー」の製造を委託している岩手県宮古市の会社社長である小幡勉さんから電話が入りました。スタッフの皆さんは全員無事であるとの情報は存じあげていたのですが、カレーの工場・店舗も奇跡的に無事だそうで、近い将来、製造を再開できそうだという報告を受けました。まだ電波が悪く、通話も途切れ途切れで、途中で切れてしまいましたが、内容は間違っていないと思います。

震災発生と同時に届いた「いしがきかりー」。震災と同時に宮古を発ち、今もどこかではるこま屋をめざしてくれているはずの「いしがきかりー」。あなたを生んで良かったよ。家内も私も「必ず無事でいる」「必ず届く」と信じていました。

数年前、小幡さん、青森の木村秋則さん(「奇跡のりんご」でその後有名になった青森のりんご農家)など数名で酒を飲んだことがありました。「歯無し」の話やバイクの話題で盛りあがっていたのですが、おふたりの底抜けに明るいキャラクターに、なんだかとても安心感を覚えたものです。木村さんに便乗するわけではないのですが、小幡さんの作るカレーは「奇跡のカレー」なのかも知れません。

心配して下さったり、激励して下さった皆さまに改めて御礼申し上げます。被災地を思うと喜んではいられませんし、詳しいことはまだまだこれから詰めていかなければなりませんが、「いしがきかりー」はこれからもお届けすることができそうです。

オバタさん。ありがとうございます。感謝は尽きません。がんばりましょう。いまから。ここから。
2011年03月17日
1987年、春だった。シンガーソングライターのあんべ光俊と岩手県釜石市にいた。新日鉄釜石の溶鉱炉の火が消える、というニュースが流れていた頃だった。企業城下町といわれた釜石にとってそれは街の消滅をも意味する重さを持っていた。

「スティールタウン」という彼の名曲がある。「ふるさとは鉄の町 ふるさとは煙のまち 俺の親父はIron Man 鉄を掘って生きてきた 暗い暗い暗い穴の中 命ひきかえ金に替えた・・・」もともとは、この歌を高炉の火があるうちに、その場で聴きたい、という思いでその可能性を探るための旅だった。しかし、事態は予想以上に深刻だった。ネガティブな発言しか出てこないふるさとの仲間に、突然、彼が切り出した。「祭りをやろう」・・・「無理だ」と云われた。「できない」と。しかし、それから足繁く釜石を訪ねる旅が続いた。「釜石レボリューション」それが合言葉だった。


その夏、法被を着た少年が「やってる、やってる」とはしゃぎながら大通りの人ごみの中にかけていった。そのうしろ姿が、やけに嬉しかった。大通りに人の輪ができ、囃子が鳴り、踊りの第一歩が動く。あのときの感動は、今思い出しても身体が震える。「釜石よいさ ~一万人の虎祭り」そう名づけられた、若者たちの手による祭りが始まった瞬間だった。これは、タイトルも、囃子も、振り付けも、すべて地元釜石の若者たちの手によるもの。企業城下町から脱皮し、ひとり歩きを始めた瞬間でもあったのかも知れない。

翌年から、私の町の若者たちも「よいさ」に参加するため、10数名で駆けつけるようになった。そこから交流が始まり、釜石からも貸切バスで私の町を訪ねてくれたりして、野球の対抗試合をやたりもした。

数年後、釜石南高校の硬式野球部が「甲子園でよいさを踊る会」というチーム名で祭りに参加したとこがあった。当時釜南は県大会でも一回戦ボーイ。おもしろいことを云う奴らだな、とそのときは思った。しかしその数年後、釜石南高は春の選抜に選ばれ、春夏を通して初の甲子園出場を果たしている。印象深いできごとだった。

みんな、無事だろうか・・・。毎日、泣きそうになりながらテレビを見ている。あの大通りを津波が襲っている。あんな明るく元気なひとたちを、容赦なく飲み込んでいく。悪夢であって欲しい。

ラーメンブームの昨今だが、ご当地ラーメンで全国でも一番うまいのは、実は釜石だと思っている。それはその後もあちこち食べ歩いてきた今も、そう思う。釜石を訪ねる楽しみのひとつは、釜石のラーメンを食べることだった。

どうか、みんな無事でいてくれ。ただただ祈るしかできない。また、みんなで野球やろう。酒飲もう。芸では負けるけど、野球はまだきっと負けない。お互い、少しは大人になったんだろうから、あの頃とは違う楽しみ方ができるだろうから・・・。投げられるか、走れるかわからないけど。