自然の力が生きている天然醸造味噌
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2011年3月
店長日記:11
2011年03月29日
「いしがきかりー」が届きました。3月11日、あの震災が起きる直前に岩手県宮古市から出荷されたカレーです。ここまでの道のりを思うだけで、感無量です。あれからもう二週間以上。どこかに流されてしまったのではないか、と思い始め、正直なところ、少しあきらめかけていたところでした。

無事届けてくれたヤマト運輸さんには心から感謝しています。この厳しい状況の中、よくぞ無事に届けてくれました。ただの「モノ」ではなく、そこには「想い」が詰まっている・・・クロネコヤマトの創業者のそんな言葉を思い出し、嬉しくなりました。

宮古はまだまだ厳しい状況が続くと思いますが、少しの明かりが見えた思いになりました。
2011年03月25日
ライター時代、力を入れてかかわった雑誌のひとつに「DAYS JAPAN」(講談社)という雑誌があった。大手の出版社として、社会問題に正面から取り組んだ、当時としては画期的な雑誌だった。私はこの雑誌のトップ記事に3回かかわることができた。「環境問題」などのテーマを大手メディアでは口にすることもできなかった、いまでは信じられないような時代のことだ。

その創刊号の大特集が「四番目の恐怖」と題した原子力発電所、即ち原発の危険性を指摘した記事だった。1988年4月号だったから、発売は1988年3月10日だったと記憶している。ちょうど23年になる。残念ながら、このときの指摘は、少なからず的中してしまった。

その年、佐野元春氏が発表した楽曲に「警告どおり計画どおり」という歌がある。

「ウィンズケール スリーマイルズ・アイランド チェルノブイリ すべては警告どおり」・・・「四番目の恐怖」にインスパイアされた曲だろうと思う。「四番目」それは、もちろん、この日本で起こりうる出来事を警告している。そして、それが今まさに、起きている。

「安全」「安心」「クリーンエネルギー」原発はそう説明され続けてきた。一方、危険極まりない施設だとも指摘されてきた。しかし、100パーセントの絶対なんて、この世にあり得ない。それがある限り、リスクは常に背中合わせだ。しかも、地震大国のニッポン。誰もがその危険性をうすうす感じてはいたはずだ。

そんなリスクに目をつぶり、電力の消費量はなし崩し的に増加の一途を辿ってきた。ここ数年の「オール電化キャンペーン」にはいろんな意味で警戒感と違和感を持っていた。そんなに電気の消費量を増やして、資源のないこの国でどうやって電力をまかなうんだろう。原発をいくつ造っても足りなくなる。そもそも、資源のないこの国で「低炭素社会」など、理想と現実があまりにも乖離しすぎてはいなかっただろうか。原発の増設抜きにその推進はあり得ない。「必要だと思います」というキャンペーンも気持ち悪いと思いながら見ていた。どんな犠牲の上に、快適な生活があったのかも、計らずも露呈してきた。

このあと、この国の、世界のエネルギー政策は大きく転換せざるを得ないだろう。それに伴い、生活や産業のあり方も根本から見直さざるを得ない。いま、この国の進むべき道が、問われている。
2011年03月22日
昨年の夏、友人が陸前高田の八木澤商店を訪ねた折、専務の河野通洋氏に工場の裏側にある小高い丘に案内されたという。なんの変哲もない、丘。ちょっと不思議な思いになった彼に、通洋氏はこう話したそうだ。

「むかし、大きな津波がきたんだけど、みんなここに逃げて助かったって、おじいちゃんから聞いた」

地震が起きて、仲間の安否がまったくわからない頃、彼はこのときのことを思い出し、必ずあの丘に逃げて無事であるに違いない、と信じていたという。

「津波のときは沖へ逃げろ」三陸の漁師たちの鉄則だそうだ。その言葉通り、波の影響を受けにくい沖へ逃げて難を逃れた漁師さんがたくさんいると聞いた。

「古い」ということを、意味のないもの、価値のないもののようにとらえる向きがあるが、そうではないだろう。経験に勝る理屈はない。きっとこうして、先達の教えを守りながら、知恵をしぼり、人はいのちをつないできた。活字の中では得られない、コンピューターではおしはかれないことが、この世にはまだまだある。

福島の原子力発電所。「津波がくる」ことをまったく想定していない設計に、いまさらながら驚いている。「土地」を知らない机上の学問が生んだ、取り返しのつかない、「負の遺産」になってしまった。
2011年03月21日
連日ブラウン管から流れてくる、想像を絶する光景に、ただただ言葉を失うばかりだ。救援物資を送るにも、その術がない。そんな中で多くの仲間たちが、被災地、或いは周辺地域で、復旧活動に身を投じている。うれしくもあり、頼もしくもある。そして、頭が下がる思いでいる。みんな、お金を稼ぐことは上手くはないが、「生きる」ことに対しては真剣だ。だから、きっと長年友人でいられている。君たちは、ぼくの誇りだ。

私にできることはないか、多くの国民の皆さんとおなじく、私も毎日そう考えている。そこで、ふと考えた。みんなこれからの生活をどのようにして再建していくんだろう、と。住む家を失い、職場を失い、これからどうしていくんだろう、と。いまは緊急の避難だが、やがて収入を得る必要がでてくるはず。そのとき、どこで、何をすればいいのか、何ができるのか。

ほかの業種のことはわからないが、私どものような醸造業というのは原料を仕入れてから、醸造し、出荷して現金が入ってくるまで、一年単位で長い時間がかかる。もしかして、被災地の工場や会社は保険等である程度の補償はされるのかも知れないが、従業員の方々はそうはいかない。会社が再建されるまで、どうやっていけばいいんだろう。

そこで、被災者の方々の期間限定での臨時雇い入れ制度を作ってみてはいかがだろうかと考えている。私どものような醸造業はそれなりの経験と技術が必要で、いきなり誰にでもできる仕事ではない。だから、新規での採用となるとなかなか難しい面もあり、うちでも募集をかけたことはない。(もっとも、家内制手工業のレベルなので従業員を雇うこともできないのだが)しかし、即戦力になる経験者であれば、話は別。ぜひ、その技術を、会社が再建されるまでの期間、ほかの町で、ほかの事業所で、生かしてはくれまいか。もちろん、もとの会社が再建できたときは戻れるという条件付で。

私どものような零細だけでは数人にしか対応できない。しかし、多くの事業所で、多くの業種で、さらに国をあげて取り組んでくれたら、多くの被災者の方々の生活が守られるのではないだろうか。

ぜひ、そのための仕組み作りに、取り組んでみたい。
2011年03月20日
被災地で差し入れのおにぎりを食べた初老のことば。なんて美しいことばなんだろうと思った。この短い言葉に凝縮されたさまざまな場面、人、想い・・・そんなものを思い、素直に感動した。

「子どもたちが無邪気にはしゃいでいる声を聞くと、癒されます」そう話す老婆もいた。こんなひとたちが、この国を作り、育て、支えてくれていたことを、今さらながら思い知らされている。

決して、無神経な放送を繰り返す某放送局やキャスター気取りの輩のおかげであるものでも、ためにあるものでもない。批判も非難もしたくはないが、あまりにもひどすぎる。見なけりゃいいのだけど、少しでも現地の情報が欲しくてチャンネルサーフィンしていると、どうしても見てしまわざるを得ない場面が何度もあった。なんで笑ってんだ。何はしゃいでいるんだ。今回だけは、どうしても許せない。ただ、今さら始まったことではなく、この局の体質、体制が、ただ素直に露出しただけのことであるとは思うのだが。少なくても、「報道」からは撤退したほうが世のため人のためというものだ。何故、彼らが彼女たちが、貴重な電波の権利や、あり得ないほどの高給を手にできているのか、理解でききない。計画停電、まずはお台場あたりからやりましょうよ。世紀の勘違い集団にはそれでもこの国の成り立ち、支えている人びとの涙も笑顔も、理解はできないだろうけど。

すみません。少しアタマに血がのぼってしまったようです。「人間力」「日本力」そんなものを見せつけられている毎日。自分にもできることが、きっとあるはず。いずれ皆さまにも発信し、ご協力をお願いすることになるかと思います。総力戦になります。
2011年03月19日
あんべ光俊が陸前高田市で開催したコンサートの際、作った曲のタイトルだ。この町には、そう歌わせるたくさんの仲間たちが暮らしている。

「全国太鼓フェスティバル」、1989年から陸前高田市で開催されているイベント。全国の太鼓叩きがそのステージに立つことを夢見ている、「太鼓の甲子園」。実行委員会は地元在住の住民の皆さんで組織されている。固定された組織ではなく、毎年募集され、大会終了後には解散する。全国的にも類を見ないネットワーク組織かも知れない。


「俺は『日本一の駐車場係』になる」駐車場担当者の言葉だ。イベントの際、実行委員会の中で一番敬遠されるのが、実は駐車場係だ。苦労して舞台を作り、自分はその舞台を見ることもできず、お客さんの来場と帰宅をひたすら誘導する。「でもな、駐車場係でしか味わえない喜びがあるんだ。お客さんが喜んでくれて、いい笑顔で帰ってくれること。あの笑顔は、駐車場係にしか見ることはできない」・・・すごい人たちだと思った。そんなスタッフがいるイベントが、失敗するはずはない。この催しはやがて「太鼓の甲子園」と云われるようになり、入場チケットも発売と同時に完売するほどのイベントに育っている。

この町の「学校給食を考える」ような内容のシンポジウムに招かれたことがある。驚いたことがいくつもあった。陸前高田では、学校給食が始まって以来、牛乳は市内産以外のものを使用したことがないこと。町の特産品である「ヤーコン」を学校給食のメニューに取り入れようと、栄養士が栽培されている畑まで見学に行っていること。学校給食のシステムをそれなりに理解しているものとして、これは驚きだった。「地産地消」などという言葉が、まだ認知もされていない時代のことだ。

陸前高田市は日本四大名工のひとつに数えられる「気仙大工」が知られた技術の町でもある。

「棟梁の 謡(うた)も木の香も 流れくる 矢車清しき 棟上の式」

これも、あんべ光俊が東北地方を中心に開催した「短歌コンサート」の際、陸前高田で生まれた曲。作詞は陸前高田市在住の女性。

河野さん。陸前高田は終わってなんかいない。みんな、すばらしい財産をたくさん残しながら、生きてきました。無責任なことはいえないのは重々承知しています。でも、人びとの暮らしとは関係なく、やがて春が来て花を咲かせてくれます。自然は時として信じられないほど残酷ですが、時としてとてつもない力を与えてくれます。私は信じます。自然の力を。人の力を。だから、もういっぺん。

2011年03月18日
先ほど、「いしがきかりー」の製造を委託している岩手県宮古市の会社社長である小幡勉さんから電話が入りました。スタッフの皆さんは全員無事であるとの情報は存じあげていたのですが、カレーの工場・店舗も奇跡的に無事だそうで、近い将来、製造を再開できそうだという報告を受けました。まだ電波が悪く、通話も途切れ途切れで、途中で切れてしまいましたが、内容は間違っていないと思います。

震災発生と同時に届いた「いしがきかりー」。震災と同時に宮古を発ち、今もどこかではるこま屋をめざしてくれているはずの「いしがきかりー」。あなたを生んで良かったよ。家内も私も「必ず無事でいる」「必ず届く」と信じていました。

数年前、小幡さん、青森の木村秋則さん(「奇跡のりんご」でその後有名になった青森のりんご農家)など数名で酒を飲んだことがありました。「歯無し」の話やバイクの話題で盛りあがっていたのですが、おふたりの底抜けに明るいキャラクターに、なんだかとても安心感を覚えたものです。木村さんに便乗するわけではないのですが、小幡さんの作るカレーは「奇跡のカレー」なのかも知れません。

心配して下さったり、激励して下さった皆さまに改めて御礼申し上げます。被災地を思うと喜んではいられませんし、詳しいことはまだまだこれから詰めていかなければなりませんが、「いしがきかりー」はこれからもお届けすることができそうです。

オバタさん。ありがとうございます。感謝は尽きません。がんばりましょう。いまから。ここから。
2011年03月17日
1987年、春だった。シンガーソングライターのあんべ光俊と岩手県釜石市にいた。新日鉄釜石の溶鉱炉の火が消える、というニュースが流れていた頃だった。企業城下町といわれた釜石にとってそれは街の消滅をも意味する重さを持っていた。

「スティールタウン」という彼の名曲がある。「ふるさとは鉄の町 ふるさとは煙のまち 俺の親父はIron Man 鉄を掘って生きてきた 暗い暗い暗い穴の中 命ひきかえ金に替えた・・・」もともとは、この歌を高炉の火があるうちに、その場で聴きたい、という思いでその可能性を探るための旅だった。しかし、事態は予想以上に深刻だった。ネガティブな発言しか出てこないふるさとの仲間に、突然、彼が切り出した。「祭りをやろう」・・・「無理だ」と云われた。「できない」と。しかし、それから足繁く釜石を訪ねる旅が続いた。「釜石レボリューション」それが合言葉だった。


その夏、法被を着た少年が「やってる、やってる」とはしゃぎながら大通りの人ごみの中にかけていった。そのうしろ姿が、やけに嬉しかった。大通りに人の輪ができ、囃子が鳴り、踊りの第一歩が動く。あのときの感動は、今思い出しても身体が震える。「釜石よいさ ~一万人の虎祭り」そう名づけられた、若者たちの手による祭りが始まった瞬間だった。これは、タイトルも、囃子も、振り付けも、すべて地元釜石の若者たちの手によるもの。企業城下町から脱皮し、ひとり歩きを始めた瞬間でもあったのかも知れない。

翌年から、私の町の若者たちも「よいさ」に参加するため、10数名で駆けつけるようになった。そこから交流が始まり、釜石からも貸切バスで私の町を訪ねてくれたりして、野球の対抗試合をやたりもした。

数年後、釜石南高校の硬式野球部が「甲子園でよいさを踊る会」というチーム名で祭りに参加したとこがあった。当時釜南は県大会でも一回戦ボーイ。おもしろいことを云う奴らだな、とそのときは思った。しかしその数年後、釜石南高は春の選抜に選ばれ、春夏を通して初の甲子園出場を果たしている。印象深いできごとだった。

みんな、無事だろうか・・・。毎日、泣きそうになりながらテレビを見ている。あの大通りを津波が襲っている。あんな明るく元気なひとたちを、容赦なく飲み込んでいく。悪夢であって欲しい。

ラーメンブームの昨今だが、ご当地ラーメンで全国でも一番うまいのは、実は釜石だと思っている。それはその後もあちこち食べ歩いてきた今も、そう思う。釜石を訪ねる楽しみのひとつは、釜石のラーメンを食べることだった。

どうか、みんな無事でいてくれ。ただただ祈るしかできない。また、みんなで野球やろう。酒飲もう。芸では負けるけど、野球はまだきっと負けない。お互い、少しは大人になったんだろうから、あの頃とは違う楽しみ方ができるだろうから・・・。投げられるか、走れるかわからないけど。
2011年03月15日
福島原子力発電所で起きている出来事について、現場で復旧にあたっている方々に対して、深く敬意の念を表します。当然、想定できた事態ではありますが、今は原発の可否を論じているときではなく、起きてしまった事態に対してどう対処するかということが大切ではないでしょうか。そこで、「わかめの味噌汁」のご提案です。

私がライター時代、取材先であった埼玉県本庄市のもぎ豆腐店茂木稔社長(当時)から「おまえ、実家が味噌屋なら、この一冊でいいから」と渡された「体質と食物」(秋月辰一郎先生・著)という60ページほどの小冊子。私はこの本を読んで、味噌屋になろうと意を決したのでした。

長崎に原爆が落とされた際、その救援にあたった聖フランシスコ病院医長・秋月先生が「わかめの味噌汁」の力を説いています。以下、この本からの抜粋です。

「昭和二十年八月九日の原子爆弾は長崎市内を大半灰燼にし、数万人の人々を殺した。爆心地より一・八キロメートルも私の病院の仲間は、焼け出された患者を治療しながら働きつづけた。
私たちの病院は、長崎市の味噌・醬油の倉庫にもなっていた。玄米と味噌は豊富であった。さらにわかめもたくさん保存していたのである。
その時私といっしょに、患者の救助、付近の人びとの治療にあたった従業員に、いわゆる原爆症が出ないのは、その原因の一つは、「わかめの味噌汁」であったと私は確信している。」

「人間にとって、日本人にとって、味噌は特に良質の油脂とミネラルの供給源であるから、私たちの放射能の害を一部防禦しれくれたのである。この一部の防禦が人間の生死の境において極めて重要なのである。」

お役にたてば幸いです。
2011年03月14日
たくさんの方からご連絡をいただき、感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございます。

私どもにとって大切なパートナーである岩手県宮古市の「とりもと」さん、社長ご夫妻、スタッフの方々全員ご無事であるとの報が入ってきました。家内と抱き合って泣きました。深刻な被災地の中から、陸前高田の八木澤商店・河野さんご一家、宮古のベーシスト・吉田さんもご無事との報が入っています。状況を考えると喜んでばかりいられませんが、生きていればなんとかなる。生きていれば。

被災地で救援活動にあたっている方々、原発の中で復旧作業にあたっている方々、現地から貴重な情報を送り続けている方々、世界中から見守り祈り続けて下さっている方々、さまざまなかたちで支援を送って下さっている方々、自分に与えられた役割を淡々と果たして下さっている方々・・・・多くの「one」の力で「world」が成り立っていることを改めて思い知らされています。みんな素敵です。感動しています。ありがとうございます。

その一方で一部テレビのひどさにはあきれ果てています。阪神大震災のとき、現場で住民の方々と多くのトラブルを起こしていたことを思い出してしまいました。非難も批判もしたくはありませんが、ショーじゃないんだから。その程度の報道しかできないなら、電気もガソリンも食料も無駄だから、すぐに放送を中止してもいいし、現場にも入らなくていい。少しは現地のお役に、安否を心配してテレビにかじりついている人たちのお役に立って下さい。「テレビ」という箱の中で生活していると自らの使命まで見えなくなってしまうものなのでしょうか。ひどすぎます。

ともあれ、まだまだ試練は続きます。私どもの工場も今日やっと危険箇所の修復が終わり、熟成庫の扉も開きました。携帯電話もつながり始めました。しばらく、仕事の具体的な予定は立てられませんが、できるだけご迷惑をおかけしないよう、そして、できるだけ誰かのお役に立つことができるよう、私どもの役割を果たしていきたいと考えています。
2011年03月13日
このたびの東北地方太平洋沖地震におきまして、被害に遭われた方々に心よりお見舞いを申し上げます。当該地域には大切なお客さまやお取引先、同志の皆さまなどがたくさんいらっしゃいます。情報がなかなか伝わってこずに心配が募りますが、ただただ、どうぞご無事にと祈るばかりです。

私どもも大きな被害を受けました。工場近くの山が、山ごと崩れ落ち、道路や谷を埋め尽くしてしまいました。私が毎日通っている道路であり、崩落のわずか一時間前もその道路を通ったばかりでした。一歩間違えれば、と思うと身の毛がよだつ思いです。事務所の天井が落ち、書類も散乱してしまいました。停電や断水、電話の不通が翌日まで続きましたが、被害が大きい地域の状況が伝わってくるに従って、恐怖と驚きで言葉を失い、ただブラウン管に釘付けになっています。こちらも携帯電話はまだつながっておりません。多くの方々からご連絡をいただいているようですが、こちらはとりあえず無事ですのでどうぞご休心下さい。

奇しくも、ちょうど一年前のこの日は、大きな多重事故に巻き込まれた日でした。霧が深く、路面が凍結していた高架橋で、正面衝突から始まり、10トントラックに体当たりされるなど、乗っていた車が大破する状況で妻ともども全身打撲程度ですんだことは奇跡としかいいようのないことでした。いまだ身体のあちこちに痛みが残りますが、いのちを維持することができたことの意味、意義を自ら問いながらの一年でした。そしてまたこの日、この出来事。天は何を学べと言うのでしょうか。

被災現場はライフラインも寸断され、電話、携帯もつながらず、外部との連絡もとれない状態だと思います。エスカレートする報道ですが、今、一番欲しい情報は、家族や友人、知人が無事かということ。避難所で避難されている方々のお名前を丹念に調べ、急速ロールでもいいから流していただければと願っています。それが、現場と外部をつないでいる報道機関ができる一番大きな役割ではないでしょうか。

また、救援物資など、どのようにして届けることが可能なのか、情報がありません。微力ではありますが、水やフリーズドライの味噌汁など、在庫がある限り、提供したいと考えています。せめて少しでも、ほっとして欲しい、暖まって欲しい、と思っています。

ともあれ、皆さまがご無事であることをただただ祈っています。この試練は、必ず乗り越えられます。人は、負けない。


株式会社はるこま屋
五月女清以智