スティールタウン~鉄の町・釜石に寄せて

1987年、春だった。シンガーソングライターのあんべ光俊と岩手県釜石市にいた。新日鉄釜石の溶鉱炉の火が消える、というニュースが流れていた頃だった。企業城下町といわれた釜石にとってそれは街の消滅をも意味する重さを持っていた。

「スティールタウン」という彼の名曲がある。「ふるさとは鉄の町 ふるさとは煙のまち 俺の親父はIron Man 鉄を掘って生きてきた 暗い暗い暗い穴の中 命ひきかえ金に替えた・・・」もともとは、この歌を高炉の火があるうちに、その場で聴きたい、という思いでその可能性を探るための旅だった。しかし、事態は予想以上に深刻だった。ネガティブな発言しか出てこないふるさとの仲間に、突然、彼が切り出した。「祭りをやろう」・・・「無理だ」と云われた。「できない」と。しかし、それから足繁く釜石を訪ねる旅が続いた。「釜石レボリューション」それが合言葉だった。


その夏、法被を着た少年が「やってる、やってる」とはしゃぎながら大通りの人ごみの中にかけていった。そのうしろ姿が、やけに嬉しかった。大通りに人の輪ができ、囃子が鳴り、踊りの第一歩が動く。あのときの感動は、今思い出しても身体が震える。「釜石よいさ ~一万人の虎祭り」そう名づけられた、若者たちの手による祭りが始まった瞬間だった。これは、タイトルも、囃子も、振り付けも、すべて地元釜石の若者たちの手によるもの。企業城下町から脱皮し、ひとり歩きを始めた瞬間でもあったのかも知れない。

翌年から、私の町の若者たちも「よいさ」に参加するため、10数名で駆けつけるようになった。そこから交流が始まり、釜石からも貸切バスで私の町を訪ねてくれたりして、野球の対抗試合をやたりもした。

数年後、釜石南高校の硬式野球部が「甲子園でよいさを踊る会」というチーム名で祭りに参加したとこがあった。当時釜南は県大会でも一回戦ボーイ。おもしろいことを云う奴らだな、とそのときは思った。しかしその数年後、釜石南高は春の選抜に選ばれ、春夏を通して初の甲子園出場を果たしている。印象深いできごとだった。

みんな、無事だろうか・・・。毎日、泣きそうになりながらテレビを見ている。あの大通りを津波が襲っている。あんな明るく元気なひとたちを、容赦なく飲み込んでいく。悪夢であって欲しい。

ラーメンブームの昨今だが、ご当地ラーメンで全国でも一番うまいのは、実は釜石だと思っている。それはその後もあちこち食べ歩いてきた今も、そう思う。釜石を訪ねる楽しみのひとつは、釜石のラーメンを食べることだった。

どうか、みんな無事でいてくれ。ただただ祈るしかできない。また、みんなで野球やろう。酒飲もう。芸では負けるけど、野球はまだきっと負けない。お互い、少しは大人になったんだろうから、あの頃とは違う楽しみ方ができるだろうから・・・。投げられるか、走れるかわからないけど。